こんにちは、NEEDYです。
全然最近のことではないんですが、夏頃に宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を観に行ってきました。
ここではネタバレありでお話させていただこうかと思うので、まだご覧になっていない方はご注意ください!
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僕がジブリ作品を映画館で観たのは、小学生のときのポニョ以来でした。
映画が始まる前、青い背景にトトロが描かれたあのジブリロゴが出てきた瞬間、強烈な懐かしさに襲われたのを覚えています。いまでも宮崎駿の作品が観れるなんて……とその時点で僕はすでに感動していました。
で、観終わって思ったのは、この映画は「悪意のある作品」だったな、ということでした。
考察も何もないんですが、この作品は宮崎駿の悪意が出てるなと僕は感じたんですね。
というよりも、悪意を出してでも作りたかった、というのが正確でしょうか。
「君たちはどう生きるか」では、現実世界の場面と、主人公の暮らす屋敷にある塔の中の世界の場面との二つに分かれて物語が進んでいきます。
そして物語の終盤、その塔を管理する老人と主人公が対話するシーンがあるんですね。
そこで老人は、この悪意のない13個の石を君が積みなさい、と主人公に託そうとする。
この13個の石というのは、宮崎駿の悪意のない作品の数だと僕は思います。13個の、悪意のない宮崎駿の意志がこもった作品たちといえばいいでしょうか。
しかし、主人公は自分の額の傷を見せて、「自分には悪意があるからそれはできない」と断るんですね。
その傷は、自分が厄介がられる学校に行きたくないが故に、自分で自分の額を石で打ちつけた傷です。
親に「同級生から傷付けられた」と誤認させるために付けた傷。
親がそうやって誤認することで、自分が学校に行かなくて済むようになることも、学校の人たちにどのような影響を与えるのかも、すべて分かっていてやったんですから、悪意以外の何物でもないですよね。
なによりも、そのために自分で自分を傷つけているんですから、自分に対しても悪意を向けているわけです。
宮崎駿は「となりのトトロ」を観た子供たちに「あの映画を観たなら自然に触れてほしい」と嘆いたエピソードがあるみたいなんですが、
宮崎駿は児童文学の畑の方なので、おそらくはトトロ以外の作品にも、子供たちに向けて、悪意なきメッセージをこめて映画を作られてきた方だと思うんです。
でもこの映画は明らかに違います。
悪意がこもっているんです。乱暴な言い方をすると、「どうして伝わらないんだ。わかってくれないんだ」という怒りといいますか、嘆きといいますか。
それを今まで自分の作品を観てきた人たちに問いかけている。
つまりこれは、綺麗な作品だけを作ってきた、という今までの純潔さを宮崎駿自身が汚した映画なのだと思います。
自分で自分を傷つけた主人公と重なりますね。
悪意なく作品を出してきた、という自分の誉れを壊してでも、傷つけてでも、それを問いかけたい宮崎駿の気持ちが伝わってくるような映画でした。
しかし、こうして観客へ問いかけてはいるものの、伝わらない、理解されないその理由も、宮崎駿はこの映画の中で明かしていると思います。
だって主人公の家は非常に裕福なんです。だからそれを嫌味に思う同級生からも、そのことで突っ掛かられてしまう。
そして宮崎駿自身も、裕福な家の出身なんです。言ってしまえば、貴族的な世界にいた人なんです。
自然の豊かさや、衣食住においても高貴なものを知っていて、理解している。そういう環境で育つことができた人なんですから。
だから映画でそれを描いているのだと思います。俺は裕福で豊かな環境にいたのだと。明示しているんですね。
僕はトトロを観て、森に行きたいと思ったことはありませんでした。だって現実で森へ行ったことがなかったから。
テレビの画面の中にあったトトロの世界は、現実ではなく空想の世界なんだと。そう捉えることしかできなかったんですね。
自分の話になってしまいますが、僕の育った街は、元々は工場地帯で、家を出てもどこもかしこもアスファルトだらけの、娯楽はショッピングモールに全て詰め込みました、というような場所でした。
身近な自然といえば、学校の校庭に生えた木々だとか、国道1号線沿いのテトラポッドが連なる波の荒れた海、あとは行く機会もなかった街の向こうに見える山くらいなものでしょうか。
家は床が見えないほど散らかった埃だらけの部屋で、きょうだいは喘息持ちが多い。地元を出て、いまの暮らしをするまで、家の換気をするという習慣が、僕のなかには無かったんです。掃除もどうやってすればいいのかわからなかった。僕はかつて、そういった不衛生な環境のなかで、ジブリ作品を観ていた子供でした。
もちろん、そんなぼくの人生のなかにも、おそらく貴重な豊かさを教えてもらえた機会や、高貴といえる環境にいたこともあったのですが、それはまた別のお話ということで。
とにかく、宮崎駿は自分の育った環境の優位性も理解していたのだと思います。
だから、自身の持つ豊かさを全て晒し、幼い頃に亡くした母親への愛着といったものを全て見せた上で、こう問いかけたかったのかなと思います。
「俺はこうやって生きた。じゃあ、君たちはどう生きていくのか」
映画のタイトルにはそういった気持ちがこもっているのかもしれません。
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夏に観たこの映画を、僕は何故いまになって振り返っているのかといえば、最近は自分のなかの「悪意」を自覚する瞬間が多々あったからなんですね。
つい最近、僕は両親と訣別する出来事があったんですが、それ以来、親への怒りや憎悪にかき消されて自覚できていなかった自分の「悪意」に気づくことが多くなりました。
心のどこかで「クソみたいな環境で育ったんだから仕方ねえだろ」というような、他人からすれば関係のないことを掲げて悪意を振りまいていた自分に気づいた、みたいな。
他人を使って、自分の至らなさや苛立ちを消化させようとしたことが自分にはあったんですね。それは明らかな悪意でした。マジで自己嫌悪が湧きますし、心底反省しています。
そういった日々のなかで、この映画のことをふと思い出すことが増えました。僕には「悪意」を振りまいた過去があります。それを消すことはできません。でも、現在と未来にそれをしないという選択はできる。
だからこそ、僕は自分の「悪意」に自覚的にならなければいけない。
それを痛感するたび、僕はこの映画のことを思い出すんです。
じゃあ、俺はどう生きるか。
俺は自分の持つ悪意を自覚しながら、噛み締めながら、それを振りまくことなく、俺が思う俺の理想を目指して、この世界を生きていきたい。そう思います。