NEEDY EXPLORER

日常で感じたことを書いてみます

リビドーが足りない

こんにちは、NEEDYです。

 

桜もすっかり満開になっちゃって! 夜でも暖かい気温で、過ごしやすい季節になってきましたね。

 

昔は「着込めば暖かいし問題ない」みたいな理由で冬が好きだったんですが、大人になってきて変わりましたね。

もう「どんだけ着込んでも冬は寒いんじゃー!」って状態ですよ。

これは大学生以降になって、海沿いから内陸部へ引っ越したのもあると思いますが、子供の頃と比べるとどうにも冬は厳しくて……全然得意じゃないですね。僕はあたたかくてのんびりできる天気がすきだよ。

 

で、生活の快適さで言うと今の時期は悪くないですよね!

なんてったって、ここから暖かくなっていくのが約束されているわけですから。もう無敵ですよこれは。

 

ところで。

最近思うんですが、うつと診断されて日々を過ごすようになってから、マジで性欲がないんですよね。

たぶん薬の副作用だと思うんですが、リビドーが消え失せている。去勢されたんかって感じ。俺の生命力溢れる性欲はどこに行ってしまったのでしょう。別にセックスがしたいということでもなくて(いやあるが)、なんというか性欲に伴うやる気元気みたいなものもさっぱり消えて無くなっちゃってるんですよ。

いまは鬱々と過ごしてしまう日々から抜け出そうと、熱い気持ち(パッションとでもいえばいいのか)を前に出して行動したいんですが、それが霧散してしまうというか、全ては虚無へ還ってしまい、何もする気が湧かないです。

 

でも人生振り返ってみて、リビドーで動いていた時期なんてあったんかい! とツッコミたくもなるんですが、さすがに今よりかはもうちょっと欲に溢れていたぞと。

 

一番リビドーに突き動かされていた時期を振り返ってみれば。

友達と花火大会の帰りに素っ裸で川に入って遊んだりとか……

それくらいの元気を取り戻したいです。

 

なんか今の自分は、香りも色も淡く失せてきた花みたいな感じがして、なんか歳の割に勿体ねえことしてるかもーと。まだ20代なんですよ俺。これでいいのか? 盛りの時期を素通りしてもいいのか?

 

まあとりあえず、運動するのがいいと思うんですよね。

近所に公営ジムがあるので行ってみようかな。家で鬱々と過ごしていても、結局リビドーも何もないっつーね。生活自体は平和ではあるんですが。俺、リビドーが、欲しい!

 

とりあえず運動ついでに痩せよう!(体重やばい)

 

 

生まれて初めての花束

こんにちは、NEEDYです!

 

桜、なかなか咲きませんね。

今週は友達と上野公園でお花見する予定を立てていたのですが、まだ咲かなさそうなので予定が流れそうです(悲しい)

この感じだと満開になるのは4月に入ってからになりそうですね。やー、早く咲かねえかなー!

 

さて、僕個人の最近の出来事はといえば、退職した職場の送別会に行ってきました。

1月に仕事を休み始めてから、ここ3か月はロクに人と会っていなかったので、これが久しぶりの人と会って話す機会になりました。

「元気してましたか!?」といろんな人たちに声をかけてもらえて、お酒も楽しく飲めたので行けて良かったなと思いました。やっぱり人と会わないと、人間じゃない何かになりそうだったので……

 

しかし、それと同時に人に対するフラッシュバックもやばくて。怯えが表に出ないように必死に気持ちを抑えていたのも事実です。やっぱり自分が思っている以上に自分の状態は良くないんだな、と。

二次会を終えた帰り道に泣きそうな気分になっちゃって。社会復帰はまだまだ遠そうだなと落ち込んでしまいました。誰かと会って話せて嬉しい反面、悲しくもなってしまったんですね。

 

ブルーな話はここまでにして、嬉しかったことを書こうと思います。

なんと、生まれて初めて花束をもらいました!

花束っていい香りがするんです。しかも花の香りって気持ちが明るくなるんですね。最高かよ。

 

送別会では見送られる側だったので、花束を受け取ったとき、ふと千と千尋の神隠しの「生まれて初めてもらったのがお別れの花束だなんて悲しい……」みたいなシーンを思い出したんですが、全然そんなことなかった。普通に嬉しかったですね。

 

家に花瓶がなくて梅酒用の瓶に入れました(笑)


もう退職した立場というのもあって、あっけらかんとした態度で、仕事のときより打ち解けてみんなと話せた気がします。年下の子にハグまで求められたときはびっくりしましたが、これも嬉しかったですね。酒にもだいぶ酔ってたから、思わずがっつり抱擁しちゃいました。思い出すと照れる。

 

二次会でカラオケにも行ったりして、最後に大人数でカラオケに行ったのはコロナ前だったので、こういうのも楽しいなーと思いました。僕はヒゲダンのPretenderと米津玄師のアイネクライネを歌ってきました。

 

あまり話す機会がなかった人からも「今度ごはん行きましょう!今週行きましょう!」と積極的に誘ってもらったり、なんか今後も何人かとは会う機会もありそうで、送別会行けてよかったなーと。

僕は地元でマイルドヤンキーみたいな交友関係しか作ってこなかった人間だったので、なんか友達という存在に妙に重たい友情感を抱いていたのですが、普通はもっと気さくなものだよなと気付きました。ああ、職場で友達ができる機会、いっぱいあったのに逃してきちゃったのかなーと。

 

人と繋がっていきたいものの、心身がそれについていけていないのが現在の状態なので、

いまは素直に気持ちがしんどいことを認めて、もうちょっと自分を労わりながら休んでいけたらいいなと思っています。

 

あとは部屋を花に飾ってると気持ちも明るくなったので、花瓶でも買ってちょくちょく飾るのもありだなと。

あまり花に興味がなかった僕ですが、今回かなり感動してしまったので、今度花屋に足を運んでみようと思います。

 

あとはお花見も絶対しよう!

長かった冬もようやく終わって、これからどんどん暖かくなっていくのが楽しみです。

高貴な経験

こんにちは。NEEDYです。

 

真夜中にふと目が覚めてしまい、なんだか眠れそうにない気分になったので、今回は子供時代のある思い出について書き連ねてみようと思います。

 

 

僕の母方の家系は、とある宗教法人の運営を担っていました。

今もバリバリ残っている宗教法人なので名前を出すことはできませんが、僕の母方の祖父母はその宗教法人の施設の管理人をしていました。

寺や神社で例えれば、そこで住み込みになって施設を管理している人、とでも言えばいいでしょうか。当時暮らしていた家からその施設が近かったのもあって(事実上祖父母の家がその施設だった)、幼い頃はそこによく遊びにいっていました。

宗教のことはよくわからなかったので、当時の幼い僕の認識では、「おじいちゃんとおばあちゃんの家は寺」みたいな感じでした。一般の寺くらいの広さがあり、祖父母に会うのも兼ねて週末になると両親はいつもそこに出かけるので、当時は「休みの日に行ける別荘のような場所」という感覚がありました。

 

平日は足の踏み場のない荒れ狂った家で過ごし、休日になると寺のような祖父母の家で過ごす。

 

振り返ってみると、この生活ルーティンが、僕が自分の家が劣悪な環境であるという認識を持たせるきっかけになっていたと思います。

掃除もされていない汚い実家と、しっかりと管理された寺のような祖父母の家。

どちらがいいかといえば、当然後者の方がいいに決まってますよね。僕は祖父母の家が大好きでした。渡り廊下からは美しい日本庭園が見え、渡り廊下で囲まれた家の中央には80畳ほどの大きな集会場がありました。

 

土日はいつも人がいっぱいでしたが、たまに人が集まらない日もありました。

そうすると、80畳の集会場の空間は僕だけが独占できるんですね。だだっ広い空間に寝転がって、天井の側面にある四方に張られた窓から差し込む陽光が気持ちよかったのを覚えてします。特に陽光に照らされた宙に舞う埃がダイヤモンドダストのように綺麗に見えて、集会場の奥にある巨大な祭壇とも相まって、なかなかに神秘的な空間でした。

 

施設の近くに住んでいたのは僕の家族だけでなく、3個上のいとこのお姉ちゃんの家族もいました。だからよくそのいとこのお姉ちゃんと庭園で遊んだり、施設の周辺を探索したり。施設には良い思い出がたくさんあります。

 

もちろん宗教施設だったので、子供である僕でも、儀式のようなものには参加させられるわけです。

詳しい内容は書けないのですが、その内容としては教会の祈りの時間のようなものに近いです。畳に正座をして、念仏のようなものを唱えて瞑想をするんですね。

振り返れば、この時間も僕にはありがたかった。その機会で「瞑想」というものを僕は知ったんです。己の心と向き合う時間とでもいえばいいでしょうか。親はそれに参加していた記憶があまりないんですが、僕は巨大な祭壇に向かって瞑想するのが好きだったのでよく参加していた記憶があります。

 

僕が小3になるまで、その施設は祖父母の家でした。

これは後に知ったことですが、僕の祖父は酒癖が大変悪い人で、もう管理を任せられないと役を解かれてしまったようです。祖父母はその施設を後にし、以降は僕たちの家族と暮らすことになりました。

 

僕はその場所にもう行けなくなってしまったことがショックでした。もう庭園で遊ぶことも、広い集会場で仰向けになってお昼寝もできなくなってしまった。しばらくは落ち込んでいた記憶があります。

 

で、いま大人になってその頃を振り返ってみると、あの経験が僕を奮い立たせているなと思うんですね。

宗教はよくわかりませんでしたが(後にあるところの政治団体だったと気づいた)、あれだけ高貴な体験をしてしまったんです。こういう暮らしがあることを知ってしまったとでもいえばいいでしょうか。

 

僕の子供時代が、掃除もされない荒れ狂った一軒家だけで終わっていたらと思うとゾっとすることがあります。

あの宗教法人の施設に入り浸った経験が、僕がいま前向きに生きていくモチベーションのもとにつながっているのではないかと。正直否定はできません。

 

これが僕の人生における高貴な経験でした。

僕はある種の「快適さ」を理解できたといいますか、別に寺レベルの家に住む必要はないですが、瞑想という内省の手段を覚えられたことは大きかったと思います。じゃなかったら、親との関係について冷静に整理して考えられなかったかもしれませんし、そもそもあの環境を生き抜くことはできなかったでしょう。かなりの確率で非行に走っていたと思います。

 

これはつい最近知ったことで、その宗教法人は政治団体だったようですが、それでもあの施設という箱は、僕が前を向くために大きな影響を与えてくれたギフトのようなものだったと思っています。

確かに親は親じゃなかったし、施設を後にして僕の家族と同居するようになった祖父母も癇癪を僕にぶつけてくるようなダメな人たちで相当苦しめられましたが、あの高貴な経験は絶対に誰もができるわけじゃなかったと思います。僕はある意味恵まれていたんです。間違いなく、あの場所で過ごせたことは僕の人生における大きな糧でした。

 

いまでも僕は神社や寺をめぐるのが趣味なので、この趣味もそこから来ているんだと思います。

 

人生には、いろんなターニングポイントというか、前を向くための種(シード)がそこかしこに蒔かれているのだなと度々感じます。

長い間、僕はそれを無視してしまったこともありましたが、今一度人生を振り返ってみて、実は豊かな心につながる種がたくさんの場面で蒔かれていたのだと知ると、人生捨てたものじゃないなと。

 

もしかしたら、まだ気づいてない種を探して、それを咲かせられたら、僕の人生はもっと楽しくなるのかも。

なんて思いながら文章を綴った深夜の今日この頃でした(書いてたら眠くなってきたのでおやすみなさい)

怒りを手放したい

こんにちは。NEEDYです。

 

3月もそろそろ折り返しですね。

今朝は散歩をしていたら椿の木にとまっていたウグイスが「ホーコケキョ」とあの鳴き声を出していました。いやあ、春ですな~。

 

僕の近況はといえば、仕事を辞めて今月からめでたく無職となりました! いや全然めでたくねえ〜

うつでした。これは虐待のPTSDを克服しようと、トラウマを掘り返しすぎた結果だと思っています。

人間を前にするとパニック発作が起きちゃうレベルで精神が限界になってしまったので……しばらくは心を整理することに努めたいですね。

人は別に怖くないって頭ではわかってるんですが、いざ前にしてしまうと恐怖で頭が真っ白になり動けなくなってしまうんです。おそらく心と身体の感覚が乖離してるんだと思います。はあ~~~~~~(溜息)

 

振り返れば去年の秋からこのブログを始めて、もう半年ほど経とうとしています。

このようなしがないブログの記事にいつもスターを付けてくれる方、すごく励みになっています。現実で人に話せないような内容ばかり書いているので、誰かに話を聞いてもらえたみたいでとっても嬉しいです。本当にありがとうございます(泣)

 

ブログを始めた理由は、自分の人生を見つめ直して、いま考えていることを文章にして整理したかったからです。

しかし、僕はひとつ意識に上げるのを避けていたトラウマがありました。

今回はそのことについて書いていこうかなと。

 

まず前置きすると、僕はこれから性的虐待について話します。

つい最近気づいたんですが、自分は親ないしはその世代の人間に対してめちゃくちゃ怒っているようです。最終的にはこの怒りを手放して楽になりたいという話です。

 

過去の記事で散々虐待については書いてきたのですが、一応整理してみます。

僕は足の踏み場のない荒れ狂った一軒家で育ちました。そんな家なので当然親も心が荒れ狂っていて、特に母親はあらゆる癇癪を子供にぶつけてしまう人間でした。

きょうだいを含め僕たち子供が親に感情を出すと、母親は「黙らないと殺す」と子供に包丁を突き付けてしまうタイプの人間で、僕は感情表現をひどく抑え込まれて育ちました。

 

でも、冷静に考えて子供が感情を出すと包丁を突き出してしまう精神状態ってめちゃくちゃやばいですよね。

大人になったいまだから思えることですが、僕の母親は精神的な病気を患っていたのでしょう。母親には精神的なサポートをしてもらえる環境が必要だったんだと思います。

 

一方で父親はといえば、そういった夫婦で必要なコミュニケーションからとにかく逃げて、生活費だけを用意する役でした。だから虐待のことも見ないふりをして、仕事から帰ればすぐに自室に篭る毎日です。何も考えたくなかったんでしょうね。

そんな夫婦の不満の矛先は、虐待という形で子供に向けられていました。

最終的には父親も心を病んで失職し、僕の家庭はめでたく崩壊、一家は解散、家族は消滅したわけなんですが。

 

しかし、僕はこのことで親にどうこう言いたいとは思いません。

 

冷静に考えてみましょう。

普通の精神状態の夫婦だったら、そもそもこんなことになっていません。

つまり僕の親は親になる以前の問題を抱えていたということです。

 

じゃあ何が両親を普通じゃない精神状態にさせていたのか、といえば。

祖父母しかいませんよね。そもそも親の親が、未熟だったという話です。

 

振り返れば、祖母は自分の子供(僕の親)の悪口を孫である自分に聞かせてしまうような人でした。つまり子供に嫌味を浴びせるタイプの親だったということです。

祖父は酒ばかり飲んでいつも癇癪を起こしていました。

こんな親の元で育てられた自分の親は……考えれば当然、まともに育つわけないですよね。

 

虐待とは連鎖するものなんです。

つまり母親が僕たち子供にした虐待というのは、母親が子供のとき親からされた虐待だと理解できます。垂れ流してしまったんですね。

 

その中でも、母親は僕にある加害をしてしまいました。

それが性的虐待です。

僕は母親からされた行為がどんな意味を持っていたのかを考えることをずっとやめていました。心が壊れてしまうから。

家族のなかでも特に僕が母親から癇癪をぶつけられた理由はそれだと思っています。

僕をみると性的虐待をしてしまったことを思い出してしまうからなんですね。母親は母親で僕への性的虐待をしてしまった加害のトラウマで発狂していたというわけです。

 

僕は女性が怖いです。正確にいうと、女性の性欲が怖い。

あのときの感覚を思い出してしまうと、もう吐き気が止まらなくて、気持ち悪くてしょうがないんです。

 

でも、これについて考えることを一生やめておくことはできないんです。

一刻も早く、僕はこの傷を癒したいんです。この親からつけられた傷を癒さないまま、された意味を考えないまま、恐怖から逃げ続ける人生なんてまっぴら御免なんです。

 

だから僕はなぜ母親が性的虐待をしてしまったのか、考えていました。

その末に出た結論は、母親もおそらく性的虐待を受けたのだろう、ということでした。

 

母親から聞いたわけでもないですし、これは僕の想像でしかないのですが、振り返ってみると母親と祖父の関わり方はちょっとおかしかったんです。妙に隷属的といいますか。性的虐待を受けていた結果だとすれば納得できるんです。

 

だから祖父がずっと酒を飲んでいた謎も解けました。娘にした加害体験を思い出したくなかったんですね。

僕の母親は4姉妹の末っ子だったのですが、母親の姉たちは祖父から暴力を受けていたそうです(これは母親の口から聞いた)

 

何もないところから暴力は始まりません。

もしかしたら祖父母も虐待を受けて育ってきたのかもしれませんね。

 

そう考えると、僕は虐待を垂れ流し続けた一族の果てにいる存在というわけです。

まあ僕はゲイなので、子供を持つことはないと思うのですが、この構図に気付けた以上、僕の代でようやく虐待の連鎖が終わったのかもしれません。

 

暴力って無意識に垂れ流しちゃうんですよね。僕も子供の頃、親からされた暴力を他者に垂れ流してしまった過去があります。

暴力の意味について考えることをやめてしまうと、知らず知らずに被害者でありながら加害者になってしまうんですね。これはとても恐ろしいことです。だからこそ僕はとにかく自分の感情や行動に自覚的でありたいわけです。

現実問題、親は自分の感情や行動の意味について考えるのをやめてしまっているから、僕との和解や家族関係の修復ができないんです。自分自身と向き合うことから逃げているんですね。

 

で、いまの僕の課題はといえば、

凄まじい怒りが心のなかにあるということです。

 

僕は怒っているんです。

許しているにも関わらず、なぜ母親はいまだに加害体験と向き合えないのか。

明らかに異常な家庭だったにも関わらず、なぜ周囲の大人はこのことから目を逸らしてきたのか。

 

僕は子供の頃、親から排泄を制限されていました。そのせいで「トイレに行きたい」と言えなかったんです。言って癇癪を起こされるのが怖かったから。

その結果、小学校の頃、僕はおもらしをよくしていたんですね。でもおもらしを何度もしてしまうって明らかにおかしいじゃないですか。学校の先生たちはこのことを見過ごしたんです。

 

そういった問題から目を逸らす年上の世代に対する怒りが、僕の心の大半を占めていることに気付いたんですね。

でもこの怒りって、誰かにぶつけたって仕方ないじゃないですか。

爆発させたところで疲れるし、悲しくなるだけなんです。

それに怒ったって仕方がないんです。

人間は完璧じゃありません。昔は生殺与奪の権を握っている絶対的存在のように見えていた親も、いま見たら、ただただ暴力に傷ついたひとりの人間でしかないわけです。

 

それは周りの人間にも言えることで、当時知らないふりをしていた大人たちも、結局は声をかけることができない精神的な事情があったんだと思います。まともな人ならちゃんと声を挙げられると思うので。みんな、心がいっぱいいっぱいだったんでしょう。

 

と、そこまで考えてみても、この怒りをどうしても僕は手放せないんです。ふと気づくと、それは肥大化して社会というものにまで向いてしまう。世界が滅べばいいと願ってしまう。

でも、そんなことにエネルギーを割く人生よりも、自分の心が本質的に望むことを叶えるほうが遥かに幸せなんです。当たり前のことですけどね。

僕は早く自分の思い描く幸せを目指したい。

 

頭ではわかっていても、この怒りを昇華させることができないのが現状です。

もしかすれば、怒りが手放せない僕は、どこかで誰かに助けてもらうことを期待しているのかもしれません。でも僕を助けられるのは僕だけです。もちろん僕も、本当の意味で他者を助けることはできません。

結局、自分で前を向いて、自分の意志で生きていくのが人生だと思いますから。

 

散々ここまで書き連ねてどう〆ればいいのかわからなくなってしまいましたが、

 

虐待は連鎖するということ

親も虐待の被害者であるということ

人間は完璧ではなく不完全であるということ

 

このことをしっかり受け入れて、少しずつこの怒りを手放していけたらなと思っています。

頑張って生きていこう!

俺の心の中にいるオベロン

こんにちは。NEEDYです。

 

最近ブルースカイを始めました。よかったらフォローしてください!

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今朝はテレビを点けたら、とあるニュースがやってました。

今年の冬は、地球温暖化による異常な暖冬だったとか。

 

やっぱり今年の冬は暖かかったですよね。

我が家では、去年の11月に買った灯油がまだ残ってます。おかげで灯油代が万単位で余りました。でも環境のことを考えると素直に喜べない状況かもしれない……。

暖冬とはいえ、それなりに寒い日もありましたね。個人的には今年の冬は暖かかったというより、寒暖差がひどかった印象です。

 

 

さて今回は僕が好きなソシャゲのFGOについて書いていこうかなと思います。

みなさんはFGOをご存じでしょうか。正式タイトルはFate/Grand Orderというのですが、このソシャゲは2015年にリリースされ、今に至るまでサービスが続いている長期タイトルです。

 

www.fate-go.jp

 

この作品がどんなゲームなのか知らない方に説明すると、

FGOとは「ノベルゲームにプレイヤーが操作するキャラクター戦闘の要素を加えたRPGとでも言えばいいでしょうか。

 

ノベルゲームの要素があるので、当然ゲームにはメインストーリーがあります。

そしてこのゲーム、2015年にリリースされたにも関わらずいまだにメインストーリーが完結していません。かなりの長期連載です。

 

しかしメインストーリーの実装は不定ですので、いつ完結するんだ状態になっています。

リリース当時は高校生だった僕も今や26歳です。

もはや僕にとってFGOとは「いまだに完結していない小説シリーズ」みたいな存在になっていて、ゲームを辞める辞めないの問題ではなく、「きちんと完結を見届けられるか否か」が重要になってます。

気づいたらもうストーリーを8年も追ってる小説シリーズの読者みたいな状態。

 

ストーリーは結構面白いです。

そうじゃなきゃ8年も追っていないわけですが、とにかくFGOの売りはストーリーにあります。

 

そのなかでも特に僕が好きなのが、

「第2部 6章 妖精円卓領域 アヴァロン・ル・フェ」です。

 

FGOの世界観は設定を理解していないと説明しにくいのですが、この章は「人間が滅んだあとのブリテン島に、無邪気な妖精たちが住まっている」という設定のお話です。まあそれがなかなかにエグい内容なわけです。

 

FGOを制作しているTYPE-MOONというクリエイター集団の作品はそもそもがエグいんですが(Fate/Stay nightの桜ルートとか)、この章の闇深さは一級品です。

現代の作品って、シリアスな問題につっこんでいる物語はかなり多くなってきた印象なんですが、なんていうんでしょう、この章に出てくるとあるキャラクターの心理が僕にとってはかなり印象的だったんです。

まだ名前がついていなかった自分の心理状態に名前が付いた、といいますか。

それが記事タイトルにある「オベロン」です。

 

 

僕の心の中にはオベロンがいます。おそらくは、他者の心の中にも。

FGOを知らない人にオベロンについて説明するとなるとかなり難しいのですが、敢えて例えるのなら「進撃の巨人で地鳴らしをしたいと思う心理」に近いでしょうか。

敢えて例えるなら、です。オベロンと地鳴らしでは「根本的な動機」が異なりますが、感情の方向性は似ていると思います。オベロンとはそういった方向性の感情を抱いているキャラクターなんです。

 

FGOのストーリーのなかでのオベロンの立ち位置は、「人間が滅んだあとのブリテン島そのものが、自分の土地に住まう妖精たちを気持ち悪く感じ、消えてほしいと願って生み出された存在」です。

この世界で例えるのなら、地球が自分の大地に住まっている人間が気持ち悪くて滅んでほしいから生み出した存在、とでもいいますか。

 

ここまで話したら思いますよね。このFGO第2部6章に登場する「妖精」とは、「人間」のたとえであると。つまりオベロンとは我々人間が気持ち悪くてしょうがない感情を抱えているキャラクターであり、この2部6章とは我々人間社会の話であると。

 

こういう気持ち、僕の心の中にはあります。

これを単純な「人間が滅べばいいのにという気持ち」と括ってしまうと、先ほど例えた「オベロンと地鳴らしの違い」がわからなくなってしまうのでこの気持ちをもっと掘り下げてみます。

 

進撃の巨人のエレンが地鳴らしをしたい気持ちもなかなかに説明しにくいのですが、エレンの地ならしにある感情には「生への欲求」が含まれていると思います。しかしオベロンの人間を滅ぼしたい気持ちにはそれが感じられません。

文字通り、すべて消えてなくなってほしいんです。

 

個人的な話ですが僕には家族がいません。

このことについては、ブログで散々書き連ねてしまって、何回そのことについて語るねんと思っているので詳しい説明は省きますが、自分の居場所・コミュニティという意味での家族が存在しません。

 

だから自分の居場所だと思える家族を持っている人たちが何かを嘆いているのを見ると、僕の心の中のオベロンが疼く瞬間があります。

 

お前には家族という居場所があるだろうがよ

それでもまだ何かを欲しがるのか

気持ち悪いな

 

という気持ちです。

しかし断言できますが、この感情は僕に家族がいれば絶対に抱くことがない感情です。

 

これは嫉妬というよりも、

「自分よりも豊かな生活をしている人が、自分よりも豊かなその生活が貧しいと嘆いていることへの怒り」です。

 

お前が嘆いているそれを、俺は持ってすらいないんだが? という怒り。

持っている者が、持たない者に愚痴っていることへの憤怒です。

 

オベロンはこのような怒りを「破壊欲求」へ変容させてしまったキャラクターとでもいえばいいでしょうか。この世界に核兵器を落としてすべてを消してしまいたい、イデオロギーのないテロリズムに近い、そんな感情です。

FGOは、そんな僕の心の中にあったどす黒く捉えられなかった感情に「オベロン」という名前を与えてくれました。

 

で、僕は思います。

自分の中にいるオベロンをいつか消滅させなきゃならんよな、と。

この「人間社会が気持ち悪いからみんな死ねと思う気持ち」は、文字通り「みんな」が含まれます。子供や老人もです。

 

ちなみにFGOのストーリーでは、オベロンは主人公たちに倒され虚空の中に消えていったわけです。

だから僕もこの気持ちを消化させなければならない。

いつまでも世を呪い厄災を願うような気持ちを抱えているのはちょっと嫌だなと。そう思わせてくれました。

 

まあ言ってしまえば、オベロンとは「逃げの感情」です。

世を呪うって、つまり自分の運命の賽を投げている状態なわけです。

自分で賽を投げてるくせに、世界への怨恨は捨てられない。

これを自覚したら、もうオベロンは甘えになってしまうんです。だからもう腹を括って現実をサバイブしていくしかない。

 

FGOはこういう感情体験ができる素晴らしい作品だと思います。

FGOはいまストーリーを追いかけている僕のような世代が、いまだに消化しきれていない感情や問題を物語として表現しているわけです。

だからこの物語がどう完結するのかは絶対に見届けたいですね。

 

 

 

なので早くメインストーリ―を更新してください(傲慢)